ラジオ・テレビの民間放送設立に尽力し、
マーケットそのものを作り出した
伊吹先生 現在、御社は関西で盤石な地位を築いていらっしゃいます。どのように今の地位を獲得していかれたのでしょうか。
服部支社長
まず当社の歴史をご説明しますと、電通の原点は1901年に設立された日本広告です。しばらくして日本電報通信社と一緒になった後に、戦前に国策で通信部門が譲渡され、1936年に広告専業となりました。大阪での始まりはオフィスを構えた1906年。まぁ、オフィスといってもトタン屋根の小屋みたいなものだったようですが。
戦時下には全国に乱立していた広告会社の数を減らすため、広告会社の営業権を限定して付与する政策が行われていたのですが、当社は東京だけでなく名古屋・大阪など西日本各都市で営業権を獲得し、事業を続けることができました。大阪で営業することを許されたのは4社。萬年社、近畿広告(現・大広)、旭広告社、そして大阪電報通信社(現・電通関西支社)。大阪電報通信社は、本来は支社なのですが別会社という扱いをしていただきました。もちろん、戦後になってからは「独占は良くない」という声が強まり、ものすごい勢いで広告業という看板を掲げる企業が参入してきました。ただ、我々が早くから関西で事業を始め、継続することが出来たということが、大阪、関西での電通のプレゼンス向上に繋がっていったのではないかと思います。
伊吹先生 なるほど。では、特に関西での御社の存在感を強めることができた要因はどこにあるでしょうか。
服部支社長 やはり、民間放送そのものを作り、マーケットを創るというところに一定の貢献をしたのが1番大きかったと思います。4代目の社長の吉田秀雄が「東京だけではなく、関西にも民間放送局を作らなければならない」と、放送局に人材を送り込んで設立に協力をしていきました。東京よりも大阪の広告の扱い量が多かったという時代もあったようですから、社長も関西というマーケットを重要視していたようです。民間放送の機運を高めるため、頻繁に関西へ来て関西の財界や新聞社のトップの方々と交渉を繰り返しました。
伊吹先生ラジオ、テレビの設立に向けて動かれた御社だからこそ、それらのメディアにとっては重要なパートナー、カウンターパートになっていったのですね。一方で、テレビ以前、既存のメディアとしてはやはり新聞が王者で君臨していたと思うのですが、どうでしょう。
服部支社長 テレビの登場以前は、確かに新聞が王者でした。しかし、競争相手が次々と出てきて、値引き合戦が起こるなど、新聞広告の取引慣習は、近代化されていなかったようです。新聞社は我々よりも先に興っている会社がほとんどで、我々広告会社がご教示をいただく立場でした。その後、民間放送の黎明とともに新聞以外のメディアが大きな白いキャンバスを用意してくれました。関西での電通は、東京資本の後発組でしたが、民間放送に最初に手をつけたことがアドバンテージとなり、そこに皇太子さまのご成婚や東京オリンピックの放送などによってテレビが急速に普及し、我々にとって追い風となってどんどん良い方向へと回っていきました。
伊吹先生 関西のスポンサーを東京のスポンサーと比較した時、違う部分はありますか。
服部支社長
その頃、関西の企業様はオーナー企業、その中でも広告を重視するオーナーが多い、という特徴がありました。オーナーの方々の多くが、広告を「営業マンの代わりに商品を売ってくれる存在」として捉えていました。広告そのものに関わるのはオーナーとして当然である、といった姿勢は、今も関西特有のものかもしれません。
テレビ番組の1社提供も関西が多かったようですし、番組から連想するスポンサーも圧倒的に関西が多かったと思います。これは、テレビ番組の企画に私たち広告業界も関与していく先駆けとなった萬年社さんの功績が大きかったと思います。
伊吹先生 広告は単なる販売の一業務ではない、というところですね。
服部支社長 そうですね。関西でいえば、パナソニックさん、サントリーさんが中心となって引っ張ってこられましたが、両社とも早くから広告を経営に近い感覚で行ってこられました。
伊吹先生 魅力的なマーケットであった大阪ですが、1980年代、90年代は東京一極化が進んでいきました。そういった変化を関西からはどのようにご覧になっていましたか。
服部支社長 一番厳しい見方をする方は、「大阪は万博(1970年)で終わった」と言いますね。ただ私自身が電通に入社したのが1977年で、第二次オイルショックの少し後くらいなのですが、83~84年頃からまた会社の売上が上昇し、業績が極めていい状態が90年代の初めまで続いていました。当時はメディアパワー、特にテレビが上昇気流に乗っていた時期ですね。ただ一方で、関西のタレントが東京の番組に出演するのが当たり前のこととなり、関西的な毒気やノリといったものが、東京に飲み込まれてしまった時代ともいえるかもしれません。それと、90年代以降、地元に本社のあった金融機関が再編を機に東京に軸足を置いてしまった、ということも東京への一極化が進んでいく大きな要素になったという気がします。
チームプレーが得意な大阪
エッジの効いたコンテンツを提供
伊吹先生 御社のクリエイティブに関してお伺いしたいのですが、東京と関西で相当に色が違うと考えてよいのでしょうか。
服部支社長 80年代あたりに吉本興業さんの東京の売上が関西を抜いた、というのが一つ象徴的な出来事ですが、その頃には東京経由で関西の言葉を発しているという状況が自然と受け入れられている状況になっていました。逆にいえば、その頃までは毒気のある表現や本音トークは関西特有のもので、関西でしか作れない広告というのがあったのだと思います。
伊吹先生 今の話を聞いて思い出したのが、最近元気だという九州のクリエイティブの現状です。聞いた話では、九州のクリエイターは会社を超えて仲が良く、それがなれ合いではなく積極的な意見交換など切磋琢磨に繋がっているようです。そして、それは従来「大阪的」「関西的」といわれるクリエイティブと近いように思います。
服部支社長 おっしゃる通りです。「お金はなくてもいいものをつくるよ」というところと、チームプレーでエッジの効いたコンテンツをつくるのは本来、関西が得意とする分野です。かなり主観が入るのですが、関西は東京と比べて、クライアントとの距離感が近く、クライアントと一緒に作っていくチームプレーがあります。いわゆるオモシロ広告だけが関西的な広告なのではなく、チームプレーで作られる広告全般が関西的な広告なのだと思います。外から見た時に、一見、関西的ではないかもしれないけど、クライアントとクリエイターが、一緒になって汗をかき、多くの時間を費やして作りあげるやり方は、パナソニックさんの流儀を始めとした関西の広告文化の源泉と言えるかもしれません。
伊吹先生
インターネット時代では、広告会社も乱立し、同じスタートラインで戦わなければいけません。先行者利得がなく、とはいえ、インタラクティブなど本来大阪が得意とする分野があるなかで、御社が今後、どうやって仕掛けていくかということに興味を持っています。
ネット分野は御社においては勝ってもいないし負けてもいない分野ではないでしょうか?
服部支社長 そうですね。インターネットの世界では、スタートラインが全部違っている、いわば異業種格闘技です。今までなんとなく予定調和になっていた境界が全部壊れて、新しいビジネスモデルの創出やプラットフォームのアイデアを問われるなど、自由競争というか、競争のフレームそのものが変わってきているように感じています。ただ、デジタル世界においてもコンテンツ制作がものを言う世界で、そこに関しては当社がこれまで積み上げてきた蓄積が当然あるので、その手法や手法の開発についてはアドバンテージを持っていると考えています。ただし、ネット専業の企業などと比較して具体的にどこが当社の優位なところかを考えて勝負していかねばなりません。そのなかで今一度、関西的なものの作りこみや魅力的なコンテンツを提供していく必要があります。
「よそ者」が関西を活性化する
東京追随ではない魅力的なエリアづくりを
伊吹先生これから関西の広告界を盛り上げていくためにはどうしたらいいでしょうか。
服部支社長 私は縁あって京都、大阪と関西に30数年ほどいるのですが、今でも「よそ者」の感覚でいます。広告界に限った話ではありませんが、中にどっぷりと浸かってしまうと、その価値に気付くのが難しくなります。よそ者だからこそ、その土地の価値や魅力に気付き、仕掛けることができると思うので、「関西を元気にしよう!」という時には、よそ者の視点が重要だと考えています。東京が大阪の毒気をメディアに上手く取り込んで成功したように、よそ者が関西の良いところを活用・発信していけば良いと考えています。「ユー・エス・ジェイ」さんは、いわゆる大阪らしいというわけではないけれど、成功していますよね。それは、もともとあそこにある可能性を、違う見方でリデザインされたからではないかと思うのです。
伊吹先生 地域活性化の議論の中では、「よそ者」ということがよく言われます。地域を活性化するのは最終的には地域の人ですが、先ずはよそ者が大事なのだそうです。大阪の強みに、第三者的な視点を混ぜることに成功する人材を育成していかねばなりませんね。
服部支社長
先輩の支社長から聞いた話なのですが、弊社の歴代の社長たちは「自分の会社のことだけでなく、地域の繁栄と業界全体のことを考えろ」と言われていたというのですね。クライアントのために何をするか、メディアのために何ができるか、ということを考えるのは当たり前ですが、地域のために何ができるか、業界全体の向上のためにどのような貢献ができるかということを常に念頭に置いてやりなさい、ということです。その思いは社員にも広く浸透しています。一例としまして、阪神・淡路大震災の犠牲者の鎮魂と都市の復興・再生を願って開催されています神戸ルミナリエがあります。これは過去に大阪広告協会賞を受賞した弊社の山下が支社長だった当時、多くのクライアントや関係者の方々のご理解を頂きながら立ち上げたもので、地元の皆さまへの貢献を評価して頂いたのではないかと思います。この時、弊社社員の家も70軒ほど全壊するなど被災しましたが、社内に「for good」の意識が芽生えたのは不幸中の幸いでした。関西の企業とそこで働く人は、阪神・淡路大震災には大きな影響を受けていると思います。
私は東京の出身で、最初は大阪が嫌でしたが(笑)、クライアントと広告会社の距離が近く、いったん懐に入るととことんまで面倒をみてくれるという付き合い方ができるのは関西の素晴らしいところで、そのような土地柄だからこそできるクリエイティブがあると思います。関西の方は東京を意識しすぎるきらいがありますが、東京を意識しすぎると、いつまでも従属都市とか副首都ということになってしまいます。そうではなく、よそに対してもっとオープンなスタンスで、クリエイターが各地から集まってくるような魅力的なエリアにすることで、大阪・関西のポテンシャルをもっと伸ばしていくことができるように思います。
伊吹先生 非常に面白い話をいろいろお伺いできました。ありがとうございました。
服部支社長 ありがとうございました。(了)